TORACO(タイガース女子)が語る横浜DeNA坪井智哉コーチ!
2015年より就任!坪井智哉コーチについて語る!!その4
2015年より、横浜DeNAベイスターズ、1軍打撃コーチに就任した
坪井智哉氏のエピソードの続編記事です。
以前の記事はこちら
・1,アマから阪神タイガースまでの軌跡
・2,日本ハムファイターズへ移籍!そして
・3,戦力外から再契約!プロ初サヨナラ打
今回は梨田監督政権時代の日本ハムでのエピソードです
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代打の切り札として活躍!
若手の外野手が台頭し、スタメンの機会が減ってしまった坪井コーチ。
しかし、左の代打として大活躍します!
当時日本ハムの監督であった梨田監督の代打起用に見事に応えました。
代打の回数はなんと55回!パリーグ最多との事です。(2009年)
そして代打でのシーズン打率は.306!
その勝負強さ・一打で何度もチームに勝利を呼び込んでくれた坪井コーチ。
ネクストバッターズサークルからゆっくり打席に向かう背番号7番に
札幌ドーム中から大歓声が響き渡るのを思い出します!
2010年以降は、外野がほぼ固定になってしまった為、坪井コーチは出場機会を求めて一塁の守備練習も行っていました。
しかし、その一塁も稲葉篤紀選手(当時)が入ることになり
実戦で守備に入ることはありませんでした。
2010年、プロ通算1000試合出場を果たしますが
その後は持病の坐骨神経痛の再発があり2軍に降格してしまいます。
2軍では打率3割を超え、活躍を見せていましたが
再び1軍に呼ばれることはありませんでした。
筆者もファイターズのサイトに登録し、毎日選手の登録・抹消情報をチェックしていたのを覚えています。
とにかく毎日何か情報は無いか、地元の(北海道の)試合終了後に放送するファイターズの情報番組を欠かさず聴いていました。
2010年:2度目の戦力外通告
シーズン終盤に1軍に登録になった坪井コーチ。
しかし、この時点で戦力構想から外れていることを球団から知らされたとの事です。
調度、筆者は坪井コーチが昇格したことを知って札幌ドームに観戦に行きました。
9月中盤だったと思います。坪井コーチは誰かの交代でレフトの守備につきました。数年ぶりに見る坪井コーチの外野を守っている姿。
札幌ドームは、ホームチーム(主催が日本ハムの場合)が三塁側なので
レフトスタンドで観戦していた筆者は、レフトの守備につく坪井コーチの後姿を間近で見る事ができました。
運がよく、なんとこの時の席は最前列から2列目!間近というか、もう坪井コーチは目の前!!
心臓が爆発しそうで、坪井コーチを呼ぶなんて、できなかったです。
緊張しすぎて、嬉しすぎて、言葉にならずに、ただ見つめているだけでした。
今になって思えば、あの時が坪井コーチの日本ハム最後の守備だったのだなぁ、と感慨深いワンシーンです。
当時はこれで坪井コーチが日本ハムを退団、などファンの私には知るはずもなかったので。
10月、坪井コーチは2度目の戦力外通告を受けました。
この時、球団側から2軍コーチの打診があったのですが、坪井コーチは現役続行を希望し、断りました。
坪井コーチは当時、自身の1000本安打まで残り26本に迫っていたのです。
1000本安打を達成したい思い、坐骨神経痛の症状が落ち着き、まだ試合に出たい思い。
現役への強く、熱い気持ち。坪井コーチは次のチームを目指して新たな道へ歩みを進めることになりました。
「もう、日本ハムから坪井コーチはいなくなる。背番号7は糸井選手(現在オリックス・バファローズ所属)が付ける。しばらくはお別れかな・・・もうあの時みたいに(2006年)再契約なんて無いし。」と、すごく気持ちが落ち込みました。
シーズンオフ、雪が降る頃に、坪井コーチのトークショーがあったんです。
その時はまだ次のチームが決まっていなくて、複雑な思いで坪井コーチのお話を、会場に聞きに行ったのも今は思い出です。ただ、坪井コーチはトークが面白くて、明るいので、自身が無職状態でも会場を大爆笑の渦に包んでしまいました。
次の記事からはオリックス入団編以降のお話です。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
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