宮里太選手!第3のキャッチャーまで…俊足巧打の1番センター候補
横浜大洋ホエールズ&横浜ベイスターズの
懐かしい選手、宮里太選手!
前身の横浜大洋ホエールズで
宮里太選手が活躍していた頃は
まだ高木豊選手や屋敷要選手がいたりと
ちょうどチームが移り変わりの時期でしたね
バッターボックスに入って
構えてから一回ケツをプリッ!と
腰をキュッ!とさせるところが
小学生ながらに好きでした 笑)
後沖縄出身の選手ならではの
濃い顔立ちも&明るいキャラクターも
印象的だったなぁー
いつぞやのキャンプで
鼻に呼吸が楽になるシールみたいなのを
貼っていたのも
印象に残ってます
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当時1番センターが固定できなかった横浜
長年横浜大洋ホエールズのセンターを守り抜いた
屋敷選手の衰えが見え始め
当時の1番センターは
横浜大洋&ベイスターズの
しばらくの課題でしたよね
キャンプが始まる時期になると
なんか毎年のように1番センター候補を
聞いていた思い出があります
・横谷選手(1990年レギュラー)
・宮里選手
・高橋雅裕選手(ショートからコンバート)
・大川選手(超俊足のスイッチヒッター)
・井上純選手(屋敷よりも速いと言われた)
それにベテラン勢の
・屋敷選手(盗塁王3回&ゴールデングラブ賞5回)
・山崎選手(1989ベストナイン&ゴールデングラブ)
などなど
ほんと俊足巧打と言う
まさに似たり寄ったりの選手が
沢山いたんですよね当時
逆に和製大砲は全く育たないという
そんなチーム状態でしたね
屋敷&山崎選手は駒田選手獲得による?
歴史的な大量解雇事件に見舞われ
1994年からそれぞれ
巨人&ダイエーに行くことになり…
(横浜初のFA獲得選手、駒田徳広!大量解雇事件に、2000本安打に…)
宮里選手も
1番センターのポジションをつかむことができず
当時若手で売り出し中だった
波留敏夫選手がレギュラーの座を奪い
1番センター争いは落ち着くことに
この当時レギュラーを掴んでいった
石井琢朗選手や波留選手、進藤選手などが
選手起用に応えて、順調に育っていって
1998年の優勝に結びつくんですものね
チーム作りって難しくもおもしろいですね
第3のキャッチャーとして…
入団当初はキャッチャーとして登録されていた
宮里太選手
ただ同期入団のドラフト1位が
チーム期待のあの谷繁選手ということで
早々に外野手転向を決断!
外野手登録になった後でも
イザと言うときの第3のキャッチャーとしても
考えられていました
(谷繁選手、秋元選手の次のキャッチャーとして)
(縁の下の力持ち、秋元宏作捕手!谷繁が…)
実際に1993年には
キャッチャーとして大魔神佐々木選手と
2イニングを無失点に抑える活躍をしています
1996年には
伸び悩む谷繁選手に刺激を与えるために
当時監督の大矢監督に
再度キャッチャー挑戦を指示され
キャンプではキャッチャーの練習をすることも
最近では守備職人の山崎憲晴選手が
第3のキャッチャー案が浮上していましたが
(横浜DeNA山崎憲晴 2014契約更改!グリエル弟加入でショートも)
この時フト
宮里太選手のことを思い出したなぁー
宮里太選手のシーズン最高成績は…
宮里太選手の
シーズン最高成績は1991年
125試合 .291(395-115) 7本 36打点 18盗塁
その後も左の代打の切り札として
長年チームで活躍しました
そんな宮里太選手は1997年に引退
引退後は球団職員として裏方業務をこなし
現在は地元沖縄に戻り
「野球アカデミーコザ塾」の講師として
沖縄の野球少年を指導しているようです
余談ですが応援歌は
Go!GoGoGo!
かっとばせGo 太(フトシ)!
狙い球だ さぁアーチを架けて
行け勝利めざし
軽快なリズムが大好きでした (*´ω`*)
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